− 客貨航送の終焉 −
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昭和63年4月9日、
瀬戸大橋開通により78年の歴史に終止符を打つことになった宇高連絡船。
正式には高速艇が引き続き運行されていたので、
JRの宇高連絡船の航路が最後となった日ではない。
長年に渡ってお世話になった宇高連絡船の最後の活躍を見届けるため、
朝から高松沖合いに浮かぶ女木島(鬼が島)での撮影、夜は宇野港でバルブ撮影をし、
宇野発の最終便には9027便「阿波丸」(臨時B便)に乗船しました。
大勢のお客を乗せて出航を待つ高松行4便「土佐丸」と、
観光船「讃岐丸」・タグボートの「たまも丸」。
コンテナなどの貨物航送も当然この日で最後となった。
女木島・男木島へ運行している雌雄海運のフェリーのデッキより撮影。
朝の高松港を出航、宇野港へ向けて航行する6便「伊予丸」。
200ミリレンズを使用して撮影。
6便「伊予丸」を同地点から85ミリレンズで撮影。
画像の女木島灯台は、萩原幹生氏著「宇高連絡船78年の歩み」によると、
紫雲丸事故の直後に国鉄が建造したとの事である。
高松港沖から女木島沖にかけては航海上で2隻の船が最接近する場所であった。
宇野行6便「伊予丸」と高松行3便「阿波丸」。
船体の右舷側と左舷側との違いに注目!
乗降口は左舷側にしかないが、
伊予丸型船はグリーン船室の窓の数などが右舷側と左舷側では異なっている。
ただし、讃岐丸(2)のグリーン船室窓は右舷側・左舷側共10枚である。
どんなに立派な書籍でも、図面やイラストの窓の数がいいかげんに記載されている場合が多い。
後部デッキから普段は立ち入ることができなかったブリッジ周辺まで、
大勢の乗船客の姿が確認できる。
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(記憶のDF50)