DF50の形態については今まで多くの文献に詳しく記載がされています。
特にレイルロード社の本は群を抜いておりますが、もう少しDF50の細部を良く見てみると
これらの文献には記載されていない形態の違いに気づく事かと思います。
地域限定の改造であれば比較的謎解きも解明しやすいですが、
同じ配置区にならなかった車両が、同じ改造をなされている場合があり謎を呼びます。
ここでは参考文献には詳しく記載されていない、DF50の形態の謎のついて
四国に在籍した車両を中心に書き述べてみました。
参考画像は別ウインドウで開きますので、閉じる場合はブラウザでお願い致します。
<全般>
・前照灯下のフックが一部のM車では取り外されている。
該当機は510・511・512・513・514・515・516・540・541・542・548等があり、
S車には該当機はなく全てM車である。
ほとんどが富山に配置された車両であはるが、富山に配置されなかった車両との関連は謎である。
・レイルロード社にも記載があるが、一部の車両にある、
スカート両サイドにある楕円形の突起物はなにか。
該当機のほとんどが亀山区であるが、33号機やM車にも取り付けられた車両があり、
1工場や1配置区での取り付けではない事は判断できるが、
一体何のために取り付けられたのだろうか。
また、549号機には少し違ったタイプのものが取り付けてある。
<四国のDF50における参考資料に記載なき外観特徴>
・ステップをスカートにボルトを2本づつ通して取り付け強化。
参考画像:DF5018号機のステップ
・車体の「白帯」は前面補強工事の為か、巻き帯を撤去して塗り帯となっており、
正面の「折れ」の部分から貫通扉ステップのあたりの塗り分けがオリジナルより若干異なる。
また、四国車と日豊車は貫通扉ステップの淵は白塗装となっている。
参考画像:DF501号機の前面帯部分
・釣合空気管2本を太平洋側に配管。
<番号個別>
・17号機:通常は太平洋側に配管されていた釣合空気配管が、
なぜこの車両だけ瀬戸内側に配管されたか。
参考画像:DF5017号機の瀬戸内側
・19号機:1エンドにジャンパ栓受の台座があり、実際に使用されたのか。
参考画像:DF5019号機の1エンド
・25号機:亀山区に在籍時代、両エンドにジャンパ栓受が溶接?で取り付けてあった。
台座付の物とは若干、場所が違い、いつ・何処で取り付けられたのか。
・55・65号機:スカートにある釣合管がなぜ中途半端な状態であったか。
又、実際に釣合管を配管し、使用されていたのか。
参考画像:DF5055号機の1エンドスカート部分
・510・512・514・541号機
レイルロード社にも記載があるが、操車掛用2本の手摺の間と貫通扉下にフックがある。
510号機は両エンドに取り付けられ、512・541号機は1エンド、514号機は2エンドのみか?
510号機の操車掛用手摺のフックはかなり上部にあり、512・514・541号機は帯の少し上にある。
510・514・541号機ではそれを活用した資料は確認できなかったが、
512号機は富山でのお召し牽引で、国旗の端がこの部分に括り付けてあった。
541号機は富山でのお召し牽引予備機対応かと思いきや、この時はすでに秋田へ転属されている。
510号機に関しては幸いにもWeb上で古い画像がいくつか見つかり、
昭和37年以降の富山在籍中にフックが取り付けられ、米子時代に取り外された模様。
参考画像:高松配置時代のDF50510号機
<追記4 2010・9・12>
・569号機
569号機は四国で全検に入らず、塗装銘板のまま事故廃車されている事が確認されている。
しかし、多度津工場の放出では塗装剥離された状態で販売されている。(2枚共)
なぜ廃車後に塗装剥離されたのかは不明であるが、
569号機以外にもこのような製造銘板があると思われる。
<ガス抜き管に関して>
・1号機を含めて一部の四国のS車では、
ガス抜き管の噴出し口とみられる物が取り付けてあり、
早期に亀山へ転属された8・13号機にも設置されている事がレールロード社の写真でも確認できる。
レールロード社の本では「M車特有のガス抜き管」と記されているが、
この記述では少し誤解が生じるかもしれない。
鉄道科学社「DF50電気式ディゼル機関車」によれば、S車にもガス抜き管は存在しているからだ。
M車では、この資料に詳しくガス抜き管に関して記載されており、
クランク室と過給機用油分離機のガス抜き管を合流して屋根上に逃すと書かれてある。
S車についてはその放出方法についての記載がないのだが、色々な車内の写真などを総合すれば、
それぞれ独自にガス抜き管を煙道へ直結しているようである。
多度津工場の改造では、過給機用油分離機のガス抜き管のみ屋根上へ直接逃していると思われる。
参考画像:DF501号機の車内<2010・8・18 再編>
<追記3 2010・8・18>
先日、友人達がDF504号機の車内への見学する機会がありましたので報告いたします。
オリジナル車の4号機では、過給機用油分離機のガス抜き管は煙道、1エンド面に直結、
クランク室のガス抜き管は四国車と同じく2エンド面に直結していました。
したがって、多度津工場では過給機用油分離機のガス抜き管のみ、
屋根上へ直接逃している改造が行われていた事が確認できました。
<多度津工場で質問した形態の疑問2点>
DF50が現役中にとても気になっていた形態の疑問を質問した事が2点あります。
以下、その内容です。
(質)537号機のラジエタ散水装置がどうしてあのような形をしていたのか?
(答)ラジエタ散水装置には2種類あって、四国(多度津工場)では高圧式、
亀山(浜松工場)では低圧式を採用していた。
537号機は多度津工場での低圧式ラジエタ散水装置の試験車。
その質問の際に、そのシステムの違いについて説明していただきましたが、
メモをとっておらず、その違いについては不明になってしまいました。
(質)17号機がどうして片エンドだけ前面補強してしていたのか?
(答)17号機の1エンドは、事故復旧時に1エンド全体を補強した。
こちらも事故の写真を見せて戴いたのにもかかわらず、その内容にはメモをとっておらず、
僅かな記憶では、昭和47年の石灰石積み込み場での追突事故であったように思います。
他にも、1号機の1エンド正面窓小型化について質問しましたが、その時は雨漏りと聞いており、
その年の4月に全検出場した車両にしてはおかしいと思っていました。
某掲示板によれば、車歴簿には疵入と書かれてあったそうです。
<33号機と34号機での製造銘板入れ替わりの謎>
この入れ替わりについてはご承知のように、
新製当時か浜松工場での入れ替わりの2説が考えられている。
この第一発見報告は製造番号研究の第一人者である渡辺肇氏であり、
鉄道ファン158号(1974年6月号)、「わが製番探訪の30年」という記事で紹介されいる。
この時の報告では茶色時代である製造2年後の昭和36年8月、長野で発見されたそうである。
(尚、日本製機関車製造銘板・番号集成には製造銘板入れ替わりの記載はあるが写真の掲載はない。)
浜松工場説では、昭和36年以前だと、たとえ同時にこの2両が入場したとしても、
この2両が同時に製造銘板を取り外すと言う事はなかったと思われる。
私としては、新製当時説が有力かと思ってはいますが、
33号機と34号機では新製に3ヶ月の開きもあり、
製造銘板が車体に取り付けられたのも3ヶ月の差があったのであろうか。
新製当時に入れ替わっていたという事は、既に受注された車両の製造銘板を一気に鋳造し、
それをまとめた状態で管理されていたと推理している。
いずれにせよ、製造銘板取り付けの初歩的な人為的ミスなのだが、
多方面で調査してみれば同じような内容のミスは結構多い物であると痛感した。
尚、上記内容はどこで製造銘板が入れ替わったかと言う真実を知るものであり、
製造会社や管理工場の人為的ミスを追及する事ではありません。
<DF50の文字ナンバーについて>
DF50の正面と側面にある形式と番号はいわゆる「ナンバープレート」(拓)ではなく、参考画像:ナンバーを取り外された廃車留置のDF50570号機
友人所蔵のナンバーを取り外された米子区での廃車留置である507号機の写真でも「D文字・縦ボルト」確認済み。
<追記2 2010・1・20>
友人より「D」文字のボルトの違いは年代の差ではなく、
製造会社の違いではないかと指摘があり再調査確認で下にまとめてみました。
メーカー別による「D」文字ボルト位置
(DF50・DE10の写真にて確認)
三菱 | 横 |
汽車 | 横 |
日車 | 縦 |
川崎 | 縦 |
日立 | ? |
東芝 | ? |
DE10の汽車会社については全くの調査不足でした。
また、M車で確認した507・571号機はどちらも川崎車両で、
DF50の日立製作所については確認をとることができませんでした。
DE10の日車が「縦」ボルトであることは知っていたのですが、
DF5022号機は阿波池田でナンバーを取り外されることなく廃車留置されており、
22号機におけるボルトの状態を確認することは現実不可能となりました。
22号機はS車で唯一「縦」ボルトであったかも知れません。
尚、各鉄道部品店での確認では、三菱製のDD51から以降は「縦」ボルトのようで、
昭和38年頃からボルトに異差が生じていると思われる。
補足として、DD54(全車三菱)の先頭部分も「D」文字ボルトは「縦」位置になっており、
おそらくサイドナンバーも同じ「縦」ボルトであろう。
補足参考画像:DD54前面ナンバーとDD13の側面ナンバーの裏面
また、汽車会社については昭和46年製造の1086号機が「横」ボルトであると確認、
昭和47年の川重と合併するまで「横」ボルトであったと推測する。
<開放テコに関して>
開放テコの大型化は四国におけるDF50の特徴の一つであることはご承知の通りで、
貨物運用の多かった四国では突放作業もあり、大変有効な改造であったと思います。
その改造は昭和48年あたりから始まったと言われているのですが、
他の四国型の特徴では改造初年より迅速に対応されていながら、
開放テコの大型化にいたっては昭和50年代前半まで改造されていない車両を見受けられました。
レイルロード社「国鉄DF50Vol.4」では昭和51年撮影の47号機が原形開放テコであり、
私が撮影した61号機も昭和51年では原形開放テコでした。
1号機にいたっては昭和53年春の撮影まで原形開放テコであり、
年明けの昭和54年冬には大型化されていました。
おそらく、この年の要検で改造されたのではないかと思われます。
完全四国型で最後まで原形開放テコ車両はこの1号機が最後であったと思われます。
また、米子区引退による転入車にも四国型に改造されながらも、
開放テコは大型化されなかった車両がありました。
これらの車両も昭和53年度中にはすべて開放テコの大型化は完了したようです。
米子区引退転入車の中には四国型改造車でありながら、
開放テコを大型化されずに廃車になった車両もありますが、
前面補強車で開放テコを大型化されずに廃車になった車両に関しては早期廃車のため不明です。
尚、昭和53年度以降亀山区引退転入車では開放テコのみ非改造車はありませんでした。
<参考:手摺の長さ>
DF50の操車掛用手摺はご存知のように製作当初は短い手摺であったが、手摺の長さ(実測)
操車掛用短 | 約320o |
操車掛用長 | 約510o〜520o |
操車掛用長大 | 約570o |
貫通扉原型 | 約460o |
貫通扉長 | 約590o |
2008年9月30日 追記1
2010年1月20日 追記2
2010年8月18日 追記3
2010年9月12日 追記4