DF50の事故廃車といえば、10・39・45号機である事はすでにご承知であろう。
この3両については今更、当サイトにて取り上げる必要はないであろうが、(下段に追記)
実際には、もう1両事故廃車になっているのをご存知であろうか?
現役当時より車歴調査をし、各鉄道雑誌の巻末に掲載されていた「車両の動き」
欄(各誌昭和53年10月号)などをご覧になっていた方ならご存知かと思いますが、
DF50569号機の廃車理由が事故となっていました。
しかし、実際にどんな事故で廃車になったか、理由を知る人は少ないかと思います。
反面、地元の愛好家の方々には結構この事故そのものに関しては知られており、
高瀬駅に放置されていた569号機の写真を撮影なされた方も多いようです。
私も、当時の事故に関しては地元の愛好家に教えて頂き、写真も見せて頂きましたが、
クレーン車の先端部と接触したとしか分からず、事故の詳細については知りませんでした。
以前より詳細を調べなくてはならないと思いつつあと伸ばしになっており、
今回、サイトを立ち上げると同時に是非共詳細を調査・発表したいと思い、
某県立図書館にて当時の資料を探してきました。
569号機の廃車年月日が、昭和53年6月5日でしたので、
事故は5月頃かと思っていましたが、思ったより前で3月22日の出来事でした。
以下、事故の詳細です。
事故発生年月日 | 昭和53年3月22日 |
事故発生時間 | 午前5時10分頃 |
事故遭遇列車 | 121レ(資料には高松発松山行き下り普通列車と記載、121レと判断。) |
運転乗務員 | 運転機関士M氏・助手機関士A氏、計2名 |
事故発生場所 | 予讃本線、高瀬町比地中、前田踏切 |
事故内容 | クレーン車のアームの先端が正面窓助手席側に激突 |
事故被害 | 助手機関士A氏、胸部殴打で3週間の怪我。 |
事故理由 | クレーン車の運転士が踏切での停止位置を誤り前方に出すぎた為。 |
事故後の処理 | 事故現場に1時間停止後、高瀬駅に引き返し、さらに1時間後に予讃本線復旧。 |
事故遭遇の121レが高瀬で運転を打ち切ったかどうかは不明。 |
参考させて頂いた朝日新聞香川版には、事故遭遇の569号機の写真も掲載されており、
生々しい姿が確認できたが、決して復活はできない状態ではなかったと思います。
老朽化はもちろん、昭和53年10月改正で亀山区に余剰車がでるのは確定的で、
569号機を再生するより亀山区の余剰車で賄う方が得策と判断したのでしょう。
この事故がなければ569号機は、昭和56年10月の客レ牽引までは活躍したかも知れませんし、
昭和53年10月改正で亀山区から転属されてきた6両の内、
1両は四国に配置されなかった事でしょう。
尚、レイルロード社のVol.2には35号機が車両火災で休車となり、
復活せずに廃車になっているようです。
亀山で休車状態の2・3号機の写真は参考資料などでも良く見られますが、
車両火災発生後の35号機の写真は個人的に見たことがありません。
車両火災発生後に鷹取工場に送られ、再生を試みられたのでしょうか。
結局この35号機は、2・3・6号機と同じくS車ではいち早く老朽廃車になりました。
直接の廃車原因は車両火災でしょうが、用途廃止は各鉄道雑誌の巻末に掲載されていた
「車両の動き」欄などでは老朽廃車となっています。
余談ですが、569号機の事故前日(21日)にも海岸寺第二踏切で
「しおかぜ1号」と軽四乗用車が衝突、軽四乗用車の2名が即死するという
大変痛ましい事故が発生しています。
いかに踏切障害に悩む四国国鉄(現在でもそうだが・・・。)であった事がうかがえます。
<追記>
最近、ネット上において繁藤事故(繁藤災害)に関する記述に誤った内容が蔓延しているようです。
事故(災害)該当列車が、「高松発高知行221レ3両編成」ではない事は
ある程度DF50の知識のある方であれば常識的な内容であり、
DF50が現役の頃にはこのような誤記は私の知る限り見当たらなかったので、
どうしてこのような記述をされたのかが謎です。
また、該当列車が貨物列車と書かれたものは、
レイルロード社国鉄DF50Vol1・128頁の誤記か誤植をそのまま引用したと考えられます。
繁藤事故(繁藤災害)当時の新聞を図書館で見に行った事がありますが、
「エンピツのような雨が降る」という表現が印象的でした。
<追記2>
最近、ウィキペディアでの「繁藤駅」繁藤事故(繁藤災害)における
被災列車の内容が正しい記述に書き換えられたようです。
被災したDF5045号機は埋まったままという表現ではなく、
車体・機関を分断して埋められたというのが正しい表現です。
車両の廃車処理は「解体」が一般的ですが、DF5045号機にいたっては、
「廃棄」として処理登録されています。
尚、私はウィキペディアには一切関与はありませんし、
今後も参加する意志は全くありません。
<追記3>
この569号機は四国で全検を受けず、
製造銘板は塗装銘板のまま事故廃車されているのだが、
多度津工場の部品放出では塗装剥離された状態で販売されている。(2枚共)
なぜ廃車後に塗装剥離されたのかは不明であるが、
569号機以外にもこのような製造銘板があると思われる。
<追記4>
< 高瀬事故に類似した国鉄バスの事故 >
DF50の事故記録を調査するにあたって、四国総局管内において、
高瀬事故に類似する国鉄バスの事故がありましたので併せてご報告いたします。
事故発生年月日 | 昭和58年1月8日 |
事故発生時間 | 午後8時12分頃 |
事故遭遇車 | なんごく26号(資料には高知発松山行急行バス最終便と記載、なんごく26号と判断。) |
運転乗務員 | T運転手 |
事故発生場所 | 国道33号線、上浮穴郡柳谷村中津(竜宮大橋手前の見通しのよい直線) |
事故内容 | 対抗してきたO運転手の荷台からはみ出したクレーン車のアームが衝突。 |
事故被害 | バスの運転席側前部が破損、T運転手が約1週間の怪我、9人の乗客は無事。 |
事故理由 | トラック(3.5t)の荷台に取り付けてあった長さ約2.7メートルのクレーンのアームが、 何かの拍子で動きだし、荷台の横にはみ出したため、対向車線を走っていたバスに衝突した。 |
昭和58年1月10日付、愛媛新聞より抜粋、写真あり。
被害車両のナンバーは読み取りにくいが、高知ナンバーの模様。
- この項終り -
2006年12月 記
2008年3月 追記
2009年3月 追記2
2010年9月 追記3
2015年3月 追記4
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記憶のDF50