− 昭和58年度のDE10移動記録 −
昭和58年、DF50が定期運用を完全に撤退したと同時に、
松山気動車区のDE10が高松運転所に集約された事はご承知の事かと思います。
また、同じく昭和58年、高知機関区のDF50が運用を外れたと同時に
高知機関区に配置された3両のDE10については年度内の移動という事もあり
鉄道趣味業界では、ほんの一部を除きDE10の車歴として残っていないのが現状です。
DF50引退当時の資料の中に、これらの資料も含まれており、
転属車両番号こそ不完全ですが当サイトをご覧の方々に公開いたします。
また、今まで不明瞭であった、高知区から高松運転所へのDE10集約で、
鉄道雑誌巻末で掲載されていた118号機の高知→高松の転属記録が、
信用ある方の四国総局の資料により確実なものとなりましたので併せて公開いたします。
さらには、このDE10118号機の新製配置は現状、高松になっていますが、
実際には松山気動車区であった事も追記しておきます。
(DE10118号機 川崎重工発送、昭和44年4月30日
松山気動車区到着、昭和44年5月2日 四支通達485号)
<高松運転所DE10高知機関区転属>
2両送り込み配置、及び、1両回送配置。
出典:昭和58年3月30日 四総通達号外第537号(27・34号機のみ)
高松区運用番号 | 運用開始日 | 高知区送り込み | 車両番号 | 高知機関区初仕業 |
---|---|---|---|---|
臨DLA1301 | 4月1日 | 4/1 ヨ前ソ283 | DE1027or34 | 4/2 変DLA202(27号機) |
臨DLA1302 | 4月1日 | 4/1 ヨ次ソ283 | DE1027or34 | 4/2 DLA204(34号機) |
− | − | ※4/4 回送 | DE10118 | 不明 |
※高松発送と高知到着が同じ4月4日なので、転属日付は5日となる。
回送列車は不明。
昭和59年2月の高松区への集中配置の資料もあればほぼ完璧であったのだが、
資料収集がDF50であったので、この資料欠落は致し方ない。
車歴調査の最終手段はやはり、局報と車体車歴簿を確認するしかない事になる。
交通新聞社発行「復刻版 国鉄客車ガイド」には昭和58年4月1日現在で、
27・34号機の高知配置を書かれており、ある意味すばらしい事ではあるが、
実態としては勇み足の記録となってしまっている。
昭和58年4月2日 阿波池田にて撮影。
高知機関区転属初仕業、
高知DLA204の運用に入ったDE1034号機牽引280レ。
一介のサイト管理者の発信がにわかに信用できない方のために、
区名札部分を拡大スキャンしておきました。
尚、これまで高知機関区では、構内作業は下り1エンド、
本運用は下り2エンド先頭で運用されていたが、、
DF50の置き換えと同時に、順次、高松区と同じく、
下り1エンド先頭に統一して運用された。
(下記の追記2参照)
<松山気動車区DE10高松集中配置転属>
全車10両各送り込み配置
出典:昭和58年8月23日 四総通達第153号
松山区運用番号 | 運用開始日 | 高松区送り込み | 車両番号 | 高松運転所初仕業 |
---|---|---|---|---|
変DLA202 | 8月31日 | 9/3 ヨ178 | ||
変DLA206 | 8月31日 | 9/1 ヨ次ソ3664 | ||
変DLA207 | 8月31日 | 9/2 ヨ178 | ||
臨DLA501 | 9月1日 | 9/2 170 | ||
臨DLA502 | 9月1日 | 9/3 170 | DE1074 | |
臨DLA503 | 9月1日 | 9/1 ヨ178 | ||
臨DLA504 | 8月28日 | 8/28 ヨ次ソ3664 | DE1024 | 8/29DLA214 |
臨DLA504 | 8月30日 | 8/30 ヨ次ソ3664 | DE101 | 8/31DLA205 |
臨DLA504 | 8月31日 | 8/31 ヨ次ソ3664 | DE101012 | |
臨DLA504 | 9月2日 | 9/2 ヨ次ソ3664 |
高松区送り込み配置の車両番号は友人の目撃情報によるもの。
私も同行していた日があるそうだが、まったく記憶なし。
尚、一般論からすれば、高松到着日が松山からの転属年月日で記録されるはずだが、
実際に四国総局で記録されている転属日の内容とは合致していない部分もある。
高松到着日・松山発送日のどちらでもない日付が記録されている車両があり、現状としては謎のまま。
転属車両を目撃された、1・24・74・1012号機については、
高松到着が松山区から高松区への転属年月日で記録されている事は確認済み。
<追記2:四国のDE10・使用向きの変遷>
配置区 | 運用 | 配置当初の下り使用位置 | エンド変更時期 |
---|---|---|---|
高松 | 予讃線方面 | 1エンド | ― |
高松 | 高徳線方面 | 2エンド | 昭和56年10月 DF50客車牽引引退と同時に下り1エンドへ変更(注:憶測) |
高知 | 本運用 | 2エンド | 昭和58年4月 DF50高知機関区引退と同時に下り1エンドへ変更 |
高知 | 構内作業 | 1エンド | ― |
松山 | 予讃線 | 1エンド | 変化なし |
注:私の撮影した高徳線の写真やネット上の画像を参考にすれば、この時期であると思われる。
尚、JR化後の使用位置実績については研究対象外のため不明です。
四国のDF50であれば、下り1エンド、上り2エンドは不変であり、(お召を除く)
四国のDE10もすべて同じ向きで使用されていたと思われがちであるが、
実際には多少の違いがあり、使用向きも変更されている経緯がある。
高松運転所では配置当初、予讃線方面と構内作業は下り1エンド、
高徳線方面は、その逆の下り2エンドで運用に入っていた。
その後、高徳線も下り1エンドとなり、高松区のエンドが統一されたのは、
昭和56年10月のDF50客車引退と同時に移行されたと思われる。
高知機関区の本運用は、高松運転所とは逆の下り2エンド、
高知駅構内作業では高松区と同じく、下り1エンド側で作業していた。
その後、高知機関区もDF50からDE10へ置き換えと同時に下り1エンドへ統一された。
追記 <余談:高知気動車区について>
DF50が高知区で現役の頃は、機関車・気動車の配置は高知機関区、
客車の配置は高知客貨車区であり、当時を知る者ならそれは当然の認識だろう。
高知機関区は、昭和59年2月の改正時に客貨車区と統合して高知運転区と改称され、
客車の配置を残し、機関車・気動車は高松へ集中配置された。
高知気動車区という名称は、JRには興味のない私は知らなかったのだが、
鉄道ピクトリアル'93・4月増刊号(特集・四国の鉄道)によれば、
民営化寸前の昭和62年3月(1日)に誕生したそうだ。(キハ32の新製配置)
また、最近発売された鉄道ダイヤ情報に正しい高知機関区の変遷が書かれていたが、
高知気動車区への名称変更が昭和62年4月(民営化の日)の記述は間違い。
ネット上における高知機関区について、DF50が配置されている頃に、
気動車の配置を高知気動車区と発信されているサイトも見られるが、単なる誤記はご愛嬌として、
ウィキペディアの高知運転所の頁では、「昭和50年3月:高知気動車区に改組」と書き込まれており、
編集履歴を遡れば、明らかに高知機関区の存在すら知らない人物の書き込み合戦が行われているようだ。
引用元は全く不明だが、少し古い資料でも漁れば簡単に分かるハズなのだが・・・。
DF50の高知配置は「気動車区」ではなく、「機関区」であるので念のため。
<あとがき>
DE10への想いは頁を割いて綴りたいと思っていたのだが、
先行してこちらを公開しました。
DF50「車歴の謎」の記載でもあるように、
機関車は変われど、車歴の謎には共通した部分がある。
ただ、現在は車歴に関する資料を一般人が閲覧できる部分には限界があり、
結局は今、誰が作っても現状に公開されている車歴と同じものになってしまう。
幸いにも、私の撮影仲間や当時の職員様の協力もあり、
僅かながらもリアルタイムでその現実を知った部分は大きい。
DE10は全国に配置され、その車両数も膨大であり、
四国という一部地域の短期間でも記録のない車歴があるのならば、
現在に公開されているDE10の車歴の2割以上は修正されると思われる。
今後、車歴を調査・研究・公開される方は、そのあたりを十分に認識しておくべきであろう。
2017年12月 追記2
2016年2月 追記
2014年3月 再編
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記憶のDF50