DE101号機の製造銘板はどこへ消えたか?

    − 人知れずに姿を消したDE101号機の製造銘板 −



    < 緊急速報、DE101号機の製造銘板がヤフオクに出品される >

    盗難疑惑銘板については常に監視しており、

    5月13日(土) 14時前に、DE101号機の製造銘板が2枚共出品され、

    その事実を当日の夜に確認し、大変驚いた。

    香川県の出品者によれば、義父の遺品整理にて出現、

    義父は、国鉄〜JR四国に勤めていたそうである。

    ヤフオクの出品者情報など、概ね、信用できるかどうかは不明だが、

    この発言が本当に正しいのであれば、

    最終職歴であるJR四国の職員が持ち帰った事になってしまう。

    左右2枚とも同じ所にあるのであれば、

    誤って部品即売会で販売されたと言う事はもはやあり得ない。

    ヤフオクでの出現は衝撃で、数名の方から直接メールでの報告もありました。

    皆様も大変気にかけていらっしゃったそうで、大変嬉しい限りです。

    結局、この出品者は事態の大きさに、出品を取り下げる結果になりましたが、

    今後、この出品者が1号機の銘板をどうなされるのかが注目される所です。

    この出品者は、一見、悪意も、鉄道の知識もないように見られるのですが、

    「方向幕指令機・行先対照表」などと言う、

    おおよそマニアでも知らない様な部品名称を発言しているのには驚きました。

    妙な個人情報の詮索はこのくらいにしておいて、

    この製造銘板が元の位置に戻るかどうかは、本来の所有者であるJR四国と、

    DE101号機を管理している西条市(四国鉄道文化館)がどう思われているのかも重要です。

    この頁を作成した理由の一つに、以前、ED75の製造銘板が盗難の被害に遭いましが、

    盗難後、すぐにネット上で拡散され、短期間にて匿名で返却された経緯があります。

    その背景には、所有者である、JR貨物が返却を切に希望していた事にあります。

    30年前の出来事と、ED75の件とはかなり状況は異なりますが、

    もはや、黒歴史となる状況において、銘板くらいどうでもよい事なのかも知れません。

    JR四国と、西条市(四国鉄道文化館)が、本物の銘板の価値を理解できない限り、

    非常に残念ではありますが、本物の製造銘板は永久に本来の位置に戻る事はないでしょう。

    当時働いておられた、高松運転所や多度津工場の方々も、

    この銘板を探しておられた人もきっといらっしゃったかと思うと無念ですが、

    完全に第三者である私からはこれ以上、何もできる事はありません。

    2017年5月 追記



    このタイトルを見て、「伊予西条にあるのに・・・」

    と、思う人が殆どではないでしょうか?

    しかし、現在、伊予西条に保存されているDE101号機の製造銘板は、

    製造銘板の有識者が見れば簡単にレプリカと判断できます。

    以前より多度津工場の公開では、

    DE101号機の製造銘板が違うことに違和感がありましたが、

    私が今まで撮影してきたネガを全てスキャンした結果、

    新たな発見がありましたので報告いたします。

    尚、この報告結果により、さまざまな事象が予測されますが、

    決して当時の管理体制の不備を追及する事ではなく、

    あくまで、事実のみを知るために作成しておりますので、

    あらかじめおことわり申しあげます。


    DE101号機

    昭和60年10月14日、高松運転所公開での撮影、瀬戸内側。

    手摺り・扉の位置や試作機特有の運転室扉の小窓がないので、

    右側が1エンドと判断できる。(つまり、こちらが瀬戸内側の撮影)

    試作機である1号機〜4号機の瀬戸内側の製造銘板は、

    1エンド寄りに取り付けられているのも特徴。


    DE101号機の銘板

    拡大して製造番号を確認、日本車輌・製造番号2519号。

    この撮影会以降、本物のDE101号機の製造銘板とはお目にかかった事はない。



    DE101号機・汽車會社の銘板取付

    次にDE101号機に遭遇したのは、昭和61年3月30日の高松構内車両展示。

    この時には汽車會社の製造銘板が取り付けられていた。(太平洋側を撮影)

    汽車會社であったので、早くから取付間違いを確認していたが、

    単なるその場限りの代用的な取付かと思っていた。



    DE101号機

    昭和61年10月12日、多度津車両所(当時の名称)公開での撮影、瀬戸内側。

    昭和41年製造が写真で確認できたので、ずっと1号機の製造銘板かと思っていた。


    DE102号機の銘板

    モノクロネガ全スキャンを終えて、改めて画像を確認してみれば、

    製造番号2520号、これは2号機の製造銘板だったので仰天。

    さらに驚いたのは、2号機はこの日、部品剥ぎ取り市に供されていたからだ。

    それでは一体、あの2号機に取り付けられていた製造銘板は何だったのであろうか?

    これはもう、ここで部品剥ぎ取り市の製造銘板を買われた方にしか分からない。

    次に1号機と接触した、昭和62年3月23日の高松構内車両展示会では、

    傷などの特徴から、この日と同じ2号機の製造銘板を撮影している。(瀬戸内側を撮影)

    そして、約2年後の平成元年5月での多度津工場公開では、

    DE101号機には製造銘板の取付は無く、

    2号機の製造銘板もその後はどうなったかは不明である。

    (1枚の行方は判明した。下記参照。)

    撮影した私自身も頭が混乱してしまったので、

    撮影した取付状況を下記に表でまとめてみました。



    - DE101号機・2号機における運用離脱後の製造銘板取付の推移 -

    機関車番号確認年月日確認撮影場所製造銘板取付実態備考
    DE101昭和59年3月3日多度津構内留置取り外し※1
    DE102昭和59年3月3日多度津構内留置取り外し※2
    DE10118昭和59年3月3日多度津構内留置取り外し※3
    DE10118昭和59年8月19日阿波池田瀬戸内側、日本車輌※4
    DE10118昭和60年8月4日多度津太平洋側、日本車輌※4
    DE10118昭和60年8月22日高松太平洋側、日本車輌※4
    DE101昭和60年10月14日高松運転所瀬戸内側、日本車輌2519号この日以降、2519の銘板は確認なし
    DE101昭和61年3月30日高松構内車両展示太平洋側、汽車會社3424号※5 DE10137号機の製造銘板取付
    DE101昭和61年10月12日多度津車両所瀬戸内側、日本車輌2520号2号機の製造銘板取付
    DE102昭和61年10月12日多度津車両所不明当日部品剥ぎ取り市で解体
    DE101昭和62年3月23日高松構内車両展示瀬戸内側、日本車輌2520号2号機の製造銘板取付
    DE101平成元年5月多度津工場取り外し 
    DE101以降多度津工場川崎(製番なし) 

    - 備考 -

    ※1昭和62年2月7日 廃車
    ※2昭和61年6月26日 廃車
    ※3昭和59年2月4日 高知→高松へ転属後、すぐに多度津留置
    ※4本来なら118号機は「川崎」製造銘板を取り付けなければならない
    ※5137号機は昭和61年3月31日 廃車


    - 参考画像・DE10118号機の取付間違い銘板 -

    DE10118号機

    DE10118号機、昭和60年8月4日・多度津にて撮影。


    DE10118号機取付間違い銘板

    拡大して製造銘板を確認、本来なら川崎の製造銘板を取り付けなければいけないが、

    なぜか日本車輌の製造銘板が取り付けてある。

    昭和60年8月22日での撮影では、昭和41年製造の銘板である事は確認できた。

    撮影した銘板の汚れ具合から判断すれば、

    118号機太平洋側に取り付けられていたのは2号機の銘板であり、

    香川県の某私設博物館の内部画像から、ここが2号機の銘板の片方を所有しているようだ。



    118号機になぜ日本車輌の製造銘板を取り付けたのは理解不能だが、

    多度津で大量余剰された車両の製造銘板は取り外したので、

    管理がずさんになってしまったのであろうか?

    日本車輌の製造銘板が取り付けられた118号機の撮影から、

    本物の1号機の製造銘板の取り付けられていた撮影の期間が短い事を考えれば、

    118号機に取り付けられていた日車の製造銘板は2号機の製造銘板と思われる。

    以上の撮影結果から考察すれば、

    本物の1号機の製造銘板の取り付けられていた昭和60年10月14日以降、

    本物の製造銘板は行方不明になったと考えるべきであろう。

    大変残念な事であるが、本物のDE101号機の製造銘板は、

    現在のJR四国の管理下には存在しないと思われる。

    いずれ本物の製造銘板が、保管されているDE101号機に返還される事を祈ります。


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